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失われたものと見つかったもの·4/7·2
Photograph of Acropolis of Athens

The place

Acropolis of Athens

パルテノンの彫刻——救出か、略奪か

離れた彫刻の帰る日は来るのか

1801-1812 (removal), debate ongoingAcropolis of Athens

1801年。ギリシャはギリシャ人のものではなかった。オスマン帝国——現在のトルコの前身——が、この地を350年以上支配していた。そこに一人のスコットランド貴族がアテネにやって来る。トーマス・ブルース、通称エルギン伯爵。イギリスからオスマン帝国に派遣された外交官だ。手にしていたのは、パルテノン神殿の古代彫刻をスケッチし、石膏で型を取る許可証。ところが彼がやったことは、200年以上たった今でも決着がついていない。

エルギンはスケッチなどしなかった。大勢の作業員を連れてきて、大理石をノコギリで切り、バールで彫像を引きはがし、パルテノン神殿に残っていた彫刻のおよそ半分を船でイギリスに送った。75メートルにわたる精緻なフリーズ(帯状の浮き彫り)、15枚の戦闘場面を描いた浮き彫り板、実物より大きな17体の神像。隣のエレクテイオン神殿からは、少女の姿をした柱「カリアティード」まで持ち去った。

オスマン帝国の支配下にあったギリシャの人々には、止める力がなかった。だが、黙ってはいなかった。作業員たちが古代の接合部を力ずくで引き裂き、彫刻の破片が地面に落ちるのを、彼らは見ていた。ある目撃者が残した言葉は、今読んでも胸に刺さる。「トルコ人は泣かなかった。だが、私たちは泣いた」。イギリス本国でさえ、詩人バイロン卿が激怒した。エルギンを「略奪者」と呼び、アテネの魂を奪った罪を詩に刻んだ。

エルギンは彫刻をロンドンの自宅に並べて公開した。しかし、この事業で彼はほぼ破産寸前。1816年、コレクションをイギリス政府に売却する。議会ではこの購入が倫理的かどうか議論されたが、結局、賛成多数で可決された。以来、彫刻は大英博物館に収蔵され、毎年何百万人もの来館者を集めている。ギリシャは1832年に独立を果たした直後から返還を求め続けている。今もだ。

大英博物館の主張はこうだ。「我々がこの彫刻を救った。エルギンが持ち出さなければ、大気汚染、戦争、放置で失われていたかもしれない。ロンドンなら世界中の誰でも無料で見られる」。ギリシャの反論はこうだ。「外国の帝国がわが国を占領している間に持ち去ったものだ。ギリシャ政府は一度たりとも許可を出していない。あの彫刻は2500年前にパルテノン神殿のために彫られたものだ」。双方に理がある。双方とも一歩も引かない。

「庇を貸して母屋を取られる」ということわざがある。エルギンに与えられたのはスケッチの許可——いわば「庇」だった。だが彼が持ち去ったのは神殿そのものの半分、まさに「母屋」だった。2009年、ギリシャは最も雄弁な反撃に出た。法廷ではなく、建築で。パルテノン神殿のすぐ麓に、新アクロポリス博物館を開館した。ガラス張りの美しい建物の中に、神殿と同じ寸法で造られた展示室がある。ギリシャに残った彫刻は本来の位置に置かれている。ロンドンにあるべき彫刻の場所は——空けてある。説明書きは要らない。その空白がすべてを語っている。

名前ひとつとっても戦いだ。「エルギン・マーブル」と呼べば、イギリス貴族の所有物と認めることになる。「パルテノン彫刻」と呼べば、アテネに属するものだと言うことになる。2500年前に彫られたこの石像たちは、もともと神々や英雄の物語を伝えるためのものだった。今、それらが語るのは別の物語——帝国と所有、そして誰にも答えの出せない問い。征服された民族から持ち去った美を、本当に「自分のもの」と呼べるのだろうか。

物語の教訓

過去は本当に誰のものか。パルテノン彫刻をめぐる論争は問いかける——文化遺産は生み出した民族のものか、それとも持ち去る力を持った者のものか。

登場人物

T
Thomas Bruce, 7th Earl of Elgin
G
Giovanni Battista Lusieri (Elgin's agent)
O
Ottoman authorities
G
Greek witnesses

出典

House of Commons Select Committee Report (1816), modern scholarly analysis, British Museum and Greek government statements