ハリド・アル=アサドは、50年間、毎日同じ遺跡を歩き続けた。1932年、シリアのタドモルという町に生まれた。パルミラ遺跡はすぐ隣にあり、石柱の並ぶ通りは彼にとって庭のようなものだった。ダマスカスで歴史学を学び、故郷に戻ると、1963年にパルミラ遺跡の責任者になった。以杩40年間。2003年に退職した後も、毎朝姿を見せた。娘にはゼノビアという名前をつけた——パルミラの伝説的な女王と同じ名前だ。遺跡は彼の職場ではなかった。彼そのものだった。
パルミラで発掘をしたすべての国際チーム——ポーランド、ドイツ、フランス、日本、アメリカ——は彼を通して仕事をした。ベル神殿や墓の谷の発掘を率い、何千ものパルミラ・アラム語の碑文を翻訳した。それはこの都市の過去を解く鍵だった。「ミスター・パルミラ」と呼ばれ、教授だろうと観光客だろうと、50年分の物語を語りながら遺跡を案内してくれた。彼は歴史を研究していたのではない。歴史と現在をつなぐ、生きた橋だった。
2015年の春、ISISが迫っていた。彼らはすでにイラクのモスル博物館でカメラの前で文化財を破壊し、古代アッシリアの都市を整地していた。パルミラが陥落したら何が起きるか、誰もがわかっていた。アル=アサドとシリア文化財当局のマアムーン・アブドゥルカリームは必死の救出作戦を実行した。像、レリーフ、葬儀用の肖像——数百点の文化財をトラックに積み、ダマスカスへ送り出した。時間が尽きるまで、何を持ち出すべきか判断したのはアル=アサドだった。すべてを知っていたのは、彼だけだった。
5月20日、パルミラが陥落した。町は空になった。同僚たちは懇願した——もゆ83歳だ、やれることは全部やった、子どもたちが待っている。彼は首を横に振った。ここで一生を過ごしてきたのだ。ISISはすぐに彼を捕らえた。1ヶ月にわたって尋問と拷問が続いた。彼らが欲しかったのは二つ。遺跡の下に眠ると信じた黄金と、避難させた文化財の場所。彼は何一つ話さなかった。一言も。
2015年8月18日、ISISはハリド・アル=アサドを故郷の町で公開斜首した。遺体は柱に吊るされた。眼鏡をかけたまま——学者の証が、見せしめに変えられた。首にかけられた札には彼の「罪状」が並んでいた。国際学会への出席。外国政府との協力。「偶像崇拝の管理者」。守ってきたすべての文化財、訳してきたすべての碑文、迎え入れてきたすべての外国人研究者——彼の人生そのものが、有罪の証拠だった。83歳だった。
そして、誰もが恐れていたことが現実になった。バアルシャミン神殿を爆破。ベル神殿を爆破——紀元32年に建てられ、2000年にわたる戦争、帝国の交代、宗教の変遷を生き延びてきた建物を。記念門を破壊し、塔のような墓を倒し、アッラートのライオン像を粉々にした。ローマ劇場では集団処刑が行われた。パルミラを人類の記録から消し去ろうとしていた。
2016年3月、シリア政府軍がパルミラを奪還したとき、巨大な石柱の並ぶ通りとローマ劇場はまだ立っていた。ダマスカスでは、アル=アサドが送り出したすべての文化財——葬儀用の胸像、碑文、2000年前に彫られた顔——が、彼が送った場所にそのまま残っていた。無事だった。数十年間彼と共に働いたポーランドの考古学チームが戻り、砕かれたライオン像を破片から一つ一つ組み直した。ロシアのオーケストラが、傷だらけの劇場で演奏した。石は覚えていた。
「仏の顔も三度」という言葉がある。どんな温厚な人間でも、三度目には堂忍袋の緒が切れる。ISISは一ヶ月かけて、何度も何度もこの老人を打ちのめそうとした。三度どころではない。だが83歳の考古学者は——生涯一度も武器を持ったことのない、眼鏡をかけた老人は——折れなかった。文化財は今も安全な場所にある。彼らが求めた宝は、ついに見つからなかった。彼は遺跡を守っただけではない。記憶する人間は、記憶されるものより壊しにくいということを、身をもって証明したのだ。
