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Couronnes et Conquêtes·2/3·3
Photograph of Pompeii

The place

Pompeii

大プリニウス最後の日

噴火に向かって船を出した提督、その名は火山学に刻まれた

Roman Imperial Period (August 24-25, 79 AD)Pompeii

西暦79年8月24日の午後、大プリニウスはナポリ湾の対岸ミセヌムの別荘で仕事をしていた。55歳。ローマ帝国艦隊の司令官にして、全37巻の自然百科事典の著者だった。姉が彼をテラスに呼んだ。湾の向こうから奇妙な雲が立ち上っている——まっすぐ伸びた煙の柱が、頂上で松の木のように広がっていた。何世紀も沈黙していたヴェスヴィオ火山が、すべてを破壊しようとしていることを、まだ誰も知らなかった。

最初の衝動は純粋な好奇心だった。小舟を用意させ、湾を渡ってあの雲を間近で調べようとした。だが出発前に、火山のふもとに住む友人レクティナから悲痛な伝言が届いた。海岸は降り注ぐ石の下に消えつつあり、逃げ道は海しかない。科学的好奇心は救出作戦に変わった。プリニウスは小舟ではなく軍船を含む艦隊全体を出動させ、誰もが逃げ出す噴火に真正面から向かった。

舵手が引き返すよう懇願したとき、プリニウスは二十世紀にわたって語り継がれる言葉を放った。「Fortes fortuna iuvat」——運命は勇者に味方する。そして前進を命じた。しかしレクティナの近くには接岸できなかった。火山の瓦礫と変動した海底が道を塞いでいた。南のスタビアエへ針路を変えた。そこでは友人ポンポニアヌスが船に荷を積んでいたが、風が火山の方角から吹いていて港を出られずにいた。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という言葉があるが、プリニウスはその夜、虎穴の中で風呂に入り、夕食まで取った。あまりに落ち着いた様子に、怯えきった主人たちは本当に安心したという。甥は後に皮肉を込めてこう書いている——彼の勇気と、危険への完全な無関心と、どちらに感心すべきかわからなかったと。夜のうちに中庭は軽石で埋まり、一行は枕を頭に縛りつけて降り注ぐ石を避けながら浜辺へ逃れた。

8月25日の夜明け、空はまだ密閉された部屋のように暗かった。長年呼吸に問題を抱えていたプリニウスは、海路で逃げられるか確かめに浜辺へ歩いた。火山ガス——おそらく二酸化硫黄と二酸化炭素の熱い波——が彼を倒した。帆布の上に横たわり、冷たい水を二度求め、そのまま崩れ落ちた。二日後に光が戻ったとき、彼の遺体は浜辺で無傷のまま見つかった。死んでいるというより、眠っているように見えたという。

甥の小プリニウスはミセヌムに残っていた。数年後、歴史家タキトゥスがあの日の出来事を尋ねた。甥が書いた二通の手紙は、古代文学における自然災害の目撃記録として最も有名なものになった。科学者たちは今でも大規模な噴火を叔父に敬意を表して「プリニー式噴火」と呼ぶ。大プリニウスは生きたように死んだ——危険から逃げるのではなく、知識に向かって帆を上げながら。そして甥の言葉が、ポンペイを埋めた災害を永遠に記憶させることになった。

Morale de l'histoire

最も気高い勇気とは、名誉のためではなく、知識と人の命のために危険に向かうことだ。たった一つの目撃証言が、一人の死を文明全体を照らす光に変えることがある。

Personnages

P
Pliny the Elder (Admiral and Scholar)
P
Pliny the Younger (Nephew and Eyewitness)
R
Rectina (Friend at the foot of Vesuvius)
P
Pomponianus (Host at Stabiae)
T
Tacitus (Historian and recipient of the account)

Source

Pliny the Younger, Epistulae VI.16 and VI.20 to Tacitus; Suetonius; Beard, Mary. The Fires of Vesuvius, 2008

大プリニウス最後の日 | Landstories