1665年、フランスの宝石商ジャン=バティスト・タヴェルニエは、インド・アグラのヤムナー川のほとりに立っていた。ダイヤモンドを追いかけて地球を六周した男だ。ムガル帝国の宮廷に出入りするほどの顔の広さもあった。その彼が、現地で途方もない話を聞く。シャー・ジャハーン皇帝は、亡き妻のために白い大理石のタージ・マハルを建てただけでは満足せず、川の向こう側にもうひとつ——今度は黒い大理石で——自分自身の墓を建てようとしていた、と。
タヴェルニエは1676年に出版した旅行記に、たしかにそう書いた。ただし——ここが肝心なのだが——「黒い大理石」とは一言も書いていない。記述はたった一行。皇帝は川の対岸に自分の墓を着工したが、息子たちの争いで中断された。それだけだ。ところが三百年のあいだに、伝言ゲームのように話が膨らんでいった。黒い石、左右対称の設計、二つの墓をつなぐ銀の橋……。伝説はあまりに美しく、誰もわざわざ原典に戻って確かめようとはしなかった。
1871年、転機が訪れる。イギリスの考古学者A・C・L・カーリルが、タージ・マハルの真正面にある廃墟の庭園——「月光の庭(メターブ・バーグ)」——を発掘した。何世紀もの泥の下から、黒ずんだ石と巨大な基礎構造が現れた。カーリルは高らかに宣言する。「黒いタージ・マハルの遺構を発見した」。それから百年間、誰もこの結論に異を唱えなかった。観光客はわざわざ川を渡り、皇帝の見果てぬ夢の跡に立った。
仏の顔も三度まで、という。この伝説も三度目の検証には耐えられなかった。1990年代、インド考古調査局が本格的な発掘に乗り出す。六年の歳月と九万立方メートルの土を掘り起こした末にわかったのは、あの「黒い石」が白い大理石だったということだ。タージ・マハルとまったく同じ石材が、何百年もの洪水と苔で黒く変色していただけだった。基礎構造は庭園の東屋と噴水池の跡。採石場の廃材も、建設の痕跡もない。伝説は、三度目にして崩れ落ちた。
歴史記録も同じことを語っている。シャー・ジャハーンの宮廷は、あらゆる事業を異常なほど几帳面に記録していた。資材、賃金、人足の数——すべてが『パードシャーナーマ』という年代記に残されている。その中に、第二の墓に関する記述は一行もない。そもそも時間が足りない。タージ・マハルの完成が1653年頃、皇帝が病に倒れたのが1657年、息子アウラングゼーブに帝位を奪われたのがその直後。空白はわずか四年。二十二年かかった建造物を、四年で再現できるはずがない。
だが、伝説が崩れた跡地から、もっと美しいものが見つかった。メターブ・バーグは、ムガル帝国の創始者バーブルが造った庭園で、シャー・ジャハーンはそれを月見の場として修復していた。中央には八角形の池があり、二十五の噴水に囲まれ、夜に咲く花が植えられていた。2006年、研究者たちは池に水を張り、暗くなるのを待った。すると水面に、タージ・マハルの姿が浮かび上がった。月光だけでできた、もうひとつのタージ・マハルが。
それでもこの伝説が消えないのは、人々がそれを必要としているからだ。愛する妻を失い、息子に裏切られ、城塞の一室に幽閉されて白い墓を見つめるしかなかった皇帝——その物語は、どこか不完全に感じる。黒いタージ・マハルがあれば、話の辻褄が合う。ひとつでは足りないほどの愛。息子の反逆さえなければ実現したはずの夢。人はそういう物語を求める。
けれど、真実のほうがいい。月の夜、シャー・ジャハーンは——たとえ幽閉された城塞の窓からでも——ヤムナー川が白いタージ・マハルを暗い水鏡に変えるのを見ることができた。触れることも、中に入ることも、手元に留めることもできない。水が静かなときだけ現れ、さざ波ひとつで消えてしまう。それこそが、悲しみにもっともふさわしい形なのかもしれない。永遠ではなく、揺らぎながら、生きている。黒いタージ・マハルは建てられなかったのではない。毎晩、川が建てていたのだ。
